
この図は東京都北区十条の、私が生まれ育った地域の地図です。図にオレンジ色で示した区域は、1945年[昭和20年]に行われたB29の空襲(空爆)により焼失した地域で、中央やや左上、環七沿いにある小さな四角が、私が通った王子第三小学校です。1967年[昭和42年]に私が入学した当時、この小学校には古い木造の二階建て校舎が一棟だけ残っていました。母に言われたことを覚えています。「戦争のとき、この学校は爆弾で火事になったのだが、おじいさんが火を消し止めてこの校舎だけは残ったのだ」と。祖父が、他の父兄や住民たちともにバケツリレーで、なんとか火を消し止めたという話でした。祖父はこの小学校のPTA会長を務めていたという話も聞いていましたので、六歳だった私は、江戸の火消しのように校舎の屋根に登って人々を鼓舞し、バケツひとつで炎と立ち向かっている祖父の姿を思い浮かべました。

その夜(1945年[昭和20年]5月25日)十条仲原にあった母の家も焼夷弾(ナパーム弾)により焼失しました。母の従兄弟たちは、貯水槽の水につかって一夜を明かしたそうです。そして親戚のひとりが逃げ遅れて亡くなりました。母は姉妹と共に王子第三小学校の前に避難したとき、自分が通った小学校が燃え出すのを見たと言います。そのとき母は15歳、祖父は52歳でした。

今回、なんでこんな話を始めたのかというと、空爆というものを、空爆される側の、普通の生活者の立場からそれがいったいどういうものなのか、実感として知りたくなったからです。約10年ちょっと前の湾岸戦争あたりから主にアメリカ主導で行われる空爆がテレビで中継(?)されるようになりました。戦争のテレビゲーム化と言われますが、あまりの現実感のなさが腑に落ちません。そして約2年半前、ニューヨークのテロのときも、CNNの生中継であのビルが崩れ落ちる瞬間を見ていたというのに「人が死んでいる」という実感はありませんでした。戦争やテロが、実感を伴わないまま、鮮明な画像のまま流れて去っていきます。

小さい頃より親から太平洋戦争当時の話は聞かされていたのですが、物心ついた頃からそれはうっとうしいものとなりました。お説教の中で「おまえは食事にしても教育にしてもこれほど恵まれているのに、なんでそうデレデレしているんだ!私の頃はそうじゃなかった。私の頃はうんぬん・・」という話になっていったからです。「だからどうしろっていうんだ!」それが十代の私の答えでした。

でもなぜか今、そこに戻って話を始めてみようという気になりました。イラクやユーゴ、アフガニスタンの知らない町のことよりも私の生まれ育った町のことのほうが身近なでことですし、誰とも知れない他人より自分の親や親類たちのことのほうが実感として感じられると考えたからです。

テレビや映画などでよく、宇宙から見た地球をどんどんズームインしていって街中の風景に焦点が合い、物語が始まるような演出がありますが、今回はその逆をやってみようと思います。焼け残った小学校の校舎からどんどんズームアウトしていき、私の現実感を時間的にも空間的にも広げてみようと思います。もしそれが自分以外の誰かに同じような現実感を与えたら、それは望外の成果ですが、今回はそんなことは考えずに自分の興味のおもむくままに入手した情報をここで公表したいと考えています。

本来なら、飲んだくれてギターを弾いているのがなによりも心地よい私ですが、たまにはこんなこともいいかもしれません。この特別企画、どうぞ最後までお付き合いください。