
前回の東京に対する空襲の話からずいぶん時間が経ってしまいましたが、こうしてまた話を進めることになりました。今回は日本全国に対する空爆についての話です。思いのほか時間が経ってしまった第一の理由はもちろん、私が飲んだくれて遊び呆けていたせいですが、もうひとつの理由が、今回のテーマである“180の都市リスト”です。このリストを探し出すのに少々時間がかかってしまいました。

前回お話したように、日本に対する米軍の爆撃方法の転換点は、1945年[昭和20年]3月10日未明に行われた東京大空襲でした。それまでの米軍の爆撃は、軍需工場や港湾施設のある軍事的要衝に対する昼間の精密爆撃でしたが、この日を境に都市そのものを焼夷弾で焼き払う夜間の無差別爆撃に重点が移りました。3月10日の東京に引き続き、3月12日に名古屋、3月13日大阪、3月17日神戸、4月4日川崎・横浜と主要都市への無差別攻撃が始まります。そして、わずか3ヶ月の間にこれらの六大工業都市が壊滅的な状態となります。

6月中旬より米軍は地方の中小都市へ攻撃対象を拡大します。それから約1ヶ月経った時点で米軍はさらに目標を拡大するために、第1番の東京から第180番の熱海まで人口が多い順に日本の都市をリストアップしました。

右の表がその都市リストです。これはインターネットサイト“
日本空襲と原爆”の工藤洋三氏にご許可をいただき、一部を転載させていただいたものです (灰色で表示した戦争による死亡者数の部分は『図説 アメリカ軍の日本焦土作戦』−太平洋戦争研究会 河出書房新社−の「戦災都市と死亡者数」のデータを合成させていただきました)。この“日本空襲と原爆”サイトでは、このリストが掲載された米軍の報告書の原本全訳ほか、空襲や原爆についての詳しい記事が掲載されていますので、興味が感じられた方はぜひ一度お訪ねください。

この報告書のタイトルは「中小工業都市地域への攻撃」とあり、日付は1945年[昭和20年]7月21日となっています。7月21日といえば終戦まであと1ヶ月もありません。日本の敗戦が誰の目にもはっきりしてきた時期ではないのでしょうか。そんな時期にこの狭い日本で180もの都市をリストアップした米軍の執拗さに、まずは驚くばかりです。

さて、この報告書のなかでは、すでにいくつかの都市が空襲対象からはずされています。その都市名と理由は以下の通りです (括弧内はリスト順位)。
・すでに破壊したためにもう攻撃の必要がない都市<黄色表示>

名古屋(3)、横浜(5)、神戸(6)、川崎(9)
・あと1回だけ攻撃するだけで十分な都市<緑色表示>

東京(1)、大阪(2)、尼崎(25)
・明確な理由がなく上部の指示により除外された都市<ピンク色表示>

京都(4)、広島(7)、新潟(32)、小倉(26)
・北緯39°以北にありB29の航続距離の点で除外された都市<紫色表示>

札幌(14)、函館(15)、小樽(30)、室蘭(41)、青森(47)、秋田(50)、盛岡(52)、旭川(53)、八戸(65)、釧路(78)、弘前(93)、釜石(122)、帯広(134)、池田(141)、川内(146)、能代(147)、宮古(154)
・爆撃に適さない自然条件にある都市<青色表示>

八幡(11)、長崎(12)、布施(35)、川口(49)、久留米(53)、若松(54)、戸畑(59)、山形(69)、吹田(76)、都城(86)、郡山(88)、福島(109)、会津若松(110)、瀬戸(117)、高山(165)

こうして残った都市に対して、1.密集性・延焼性の有無、2.軍需工業地区の有無、3.水陸の輸送施設の有無、などを考慮して攻撃が実行されましたが、右のリストを見てもわかりますが、決して順番通り空襲が実行されたわけではありませんし、攻撃対象からはずされたはずの都市が攻撃されていたりもしています。これは、レーダー映像や写真偵察などの準備の関係や、また、前回お話したように天候などによって、第一目標が攻撃不可能な場合、無作為に空襲が行われた結果かと思われます。

ここでいくつかの都市の状況を諸資料からまとめてみようと思います。まずは、このリストが作成された時点で、東京とともにすでに壊滅状態となっていた5つの都市です。
・大阪(2)

計8回の大空襲を受けているが、特に被害が大きかったのは、東京、名古屋に続く3月13日の大空襲で、通天閣、四天王寺の五重塔、北御堂、道頓堀周辺の歓楽街が焼失した。その後4月、5月は空襲はなかったものの、6月1日より終戦の前の日に至るまで激しい攻撃を受けている。
・名古屋(3)

軍需工場が多かったため、工場を中心とした精密爆撃11回、無差別空襲7回の大規模な攻撃を受けている。東京に引き続き3月12日に最初の焼夷弾夜間攻撃を受けているが、3月だけでもその後2回と立て続けに大空襲を受けている。5月14日の空襲では名古屋城が焼け落ちた(金のシャチホコの雌は取り外されて無事だったが、雄は間に合わなかった)。
・横浜(5)

5月28日まで原爆投下の予定地であったため、それまでは東京・川崎の余波を受ける程度であったが、5月29日の大空襲一回により中心部のほとんどが焼失した (かろうじて焼け残ったホテル・ニューグランドにマッカーサー占領軍が最初の司令部を置いた)。
・神戸(6)

軍需工場とその下請け工場があった神戸は、3月17日、5月11日、6月5日と3回の執拗な大空襲に見舞われた。人口当たりの死傷者数では、広島・長崎を除くと、東京や他の都市よりも高い数字を残している。
・川崎(9)

当時も工業地帯であり、また隣接する東京の空襲の余波も受けていたが、4月15日に最大の空襲を受け、川崎大師の本堂と山門を焼失した。

次に、日本全国を地方ごとに要約してみます。
・九州地方

九州では、全国に先駆けて1944年[昭和19年]6月16日より中国の成都からのB29による空爆が北九州の八幡製鉄所などに対して行われていた。このリストが作成された時期は、米軍の沖縄上陸戦ともからみ、九州全域の航空基地(特攻隊の基地が多かった)、港湾、船舶、交通機関、軍需工場が爆撃されている。B29による夜間無差別焼夷弾攻撃は、福岡(8)、熊本(16)、佐世保(17)、鹿児島(22)、大牟田(27)、門司(34)、延岡(62)、大分(63)、佐賀(101)が攻撃対象となった。
・中国地方

中国地方では特に山陽側で軍需施設、工業地域に対する攻撃が頻繁に行われ、岡山(10)、福山(89)などでは市街地に対する夜間焼夷弾攻撃も行われた。特に、大きな軍港であった呉(10)は米軍の最重要攻撃目標のひとつで、合計62回の空襲を受けており、夜間焼夷弾攻撃も7月1日に行われ、市街地は壊滅した。
・四国地方

四国地方では、高松(40)、徳島(37)、高知(42)、今治(91)、松山(38)、宇和島(95)などで焼夷弾攻撃により多くの犠牲者を出している。
・近畿地方

近畿地方では、大阪、神戸のほか、堺(24)、尼崎(25)、姫路(43)、吹田(76)、豊中(118)、池田(141)など大阪府下のほか、和歌山(20)、舞鶴(171)、明石(111)など多くの都市が大規模な空襲を受けている。
・東海地方

東海地方では、名古屋周辺の都市のほか、軍需工場が多数ある各務原、静岡(15)が何度も標的にされた。静岡は6月19日の空襲で灰燼に帰した。また、浜松(29)は、6月18日から始まった中小都市への夜間無差別攻撃の第一回目の攻撃目標のひとつとなったほか、B29の通り道にあたったため、空襲で残った爆弾を捨てていく場所となっていた。“不要爆弾のゴミ捨て場”である。そのほか、豊川では8月7日に、東洋一の武器工場といわれた海軍工廠への激しい爆撃があり、工廠就労者の多くが犠牲となった。広島に原爆が投下された翌日のことである。
・北陸地方

軍事施設が比較的少なかった北陸地方だが、富山(36)、福井(48)、敦賀(163)で決して少なくない被害を出している。特に富山は、8月2日の夜のたった一回の夜間空襲により市街地の98%が焼失した。
・甲信越地方

大きな都市や軍事施設が少ない甲信越では、被害は少なかった。それでも、甲府(45)や長岡(73)で、夜間焼夷弾攻撃により多くの犠牲者が出ている。
・関東地方

東京、横浜、川崎のほか、関東地方では、千葉(51)、宇都宮(55)、前橋(57)、日立(61)、高崎(67)、水戸(75)、八王子(79)、銚子(81)、熊谷(105)などの都市が7月から8月にかけて空襲を受け、大きな被害を出した。銚子は、浜松同様、B29の通り道であり、帰りがけに残った爆弾が落とされた。
・東北地方

東北地方では仙台(13)が、7月10日深夜に、焼夷弾攻撃により市の27%を焼き尽くした。その他、青森(47)、郡山(88)、釜石(122)などの軍需工業都市が、空母の艦載機による攻撃を受けた。これらの都市は、右の表ではB29の無差別爆撃対象外とされているが、例外的に硫黄島から飛び立ったB29による爆撃も受けている。
・北海道

北海道の都市は、すべて右の表では無差別爆撃対象外とされているが、東北地方北部と同様、空母の艦載機による攻撃を受けた。特に被害が大きかったのは、室蘭(41)、釧路(78)、根室、そして青函連絡船で北海道と本土を結ぶ函館(18)などである。

ここまで都市別・地方別に述べてきましたが、日本への空爆の変化を時間の経過にそって、もう一度簡単にまとめて見ます。
・最初の空爆

東京の空襲で述べたように1942年[昭和17年]4月18日に、東京、横浜、名古屋、神戸を目標とした空母の艦載機による単発的な奇襲があった。
・中国成都よりB29の空爆

1944年[昭和19年]6月16日より、中国成都より出撃するB29が航続距離ぎりぎりの九州北部の軍需施設に対して昼間の精密爆撃を開始する。
・日本全国への空爆の拡大

1944年[昭和19年]11月24日よりサイパン、テニアン、グアムより出撃したB29が、東京を始めとして主要都市の軍需施設に対して昼間の精密爆撃を開始する。
・夜間無差別焼夷弾攻撃の始まり

1945年[昭和20年]3月10日よりB29による夜間無差別絨毯爆撃攻撃が、東京を皮切りに六大工業都市に対して始められる。
・無差別攻撃の地方中小都市への拡大

1945年[昭和20年]6月18日より地方都市への夜間無差別絨毯爆撃攻撃が、浜松、四日市、鹿児島、大牟田を皮切りに開始される。

さてこうして、十条、そして東京に対する空爆の続きとしてさらに俯瞰の範囲を広げ、日本全国に対して行われた都市への無差別空襲について、「調べたうえで知ったこと」を述べてきましたが、正直なところ、もう対象自体が大きく、かつ、多様すぎて私の手に負えないように感じています。私にしか伝えられないような情報というのもありません。これも、今回のレポートが間延びしてしまった理由のひとつかもしれません。

でも、そんなことを言っていたのでは、せっかく始めたこの企画も頓挫してしまいますので、ここでもう一度「一般市民を巻き込む空爆や戦争の話に実感を取り戻す」という初心に帰って話を続けることにします。

その視点に戻ってみると、ひとつのことに気がつきます。今回のように日本全国の話をひとつにまとめようとすると、どの都市では何回の空爆があって、何人の人間が死んだといった統計的な事実を取り上げざるをえなくなり、その数値の大きさが悲惨さの度合いを表しているような錯覚に陥ってしまいます。それは現在、遠くの国で行われている戦争のことをテレビや新聞で知るのと近い感覚ではないでしょうか。

さらに、もうひとつは、これまで一般市民を標的にした夜間無差別攻撃ということを主題にしてきましたが、軍需施設、港湾施設などに対する攻撃でも一般市民がたくさん犠牲となっているということです。

私の義母は、1945年[昭和20年]当時、学徒動員により立川の軍需工場で作業をしていました。そして、たまたま義母が休んだ日に、工場は米軍の戦闘爆撃機の銃撃に合い、同級生が亡くなったそうです。立川は右のリストでは148位、夜間無差別爆撃は受けずに済みましたが、戦争の犠牲者は286人です。私の実母も当時、学徒動員され十条の兵器廠で、銃弾の不良品チェックをしていました。

これは現在のどの国でも同じことだと思いますが、軍需施設が攻撃されて犠牲となる人々は、必ずしも戦闘要員ではなく、その多くは国家の政策で義務的に働かされていたり、それこそ生活のために働いている人々ではないでしょうか。

最終的には、この180の都市がすべて空襲にあわなくて済みました。でも、もし日本が2個の原爆にもめげずに降伏しなかったらどうなっていたのでしょう。米軍は本当に第180番目の熱海を夜間無差別攻撃で焼き払ったのでしょうか (原爆は2個しかありませんでしたから)。

次の対象はその原爆にするつもりです。これはある意味、さらに大きな対象であり、かつ、さまざまな視点から語りつくされているようにも思えますが、私なりになにかしらまとめてみようと思います (たとえ無駄な情報をまたひとつ世界に放出することになっても)。

目標としては、
1.「原爆を作った人々」
2.「原爆を落とした人々」
3.「原爆を落とされた人々」
の3回の予定です。