J-town Bombings
― 十条空爆 ―

―4― ワンスモアヒロシマ


上図は、1945年(昭和20年)8月6日に広島市で爆発した原爆の爆心地から半径2kmをオレンジで、半径2〜4kmを黄色で示した同市の最近の地図です。「広島平和記念資料館」(以後「平和資料館」とします)の資料によりますと半径2kmの範囲で建物はほぼ「全壊・全焼」、半径2〜4kmの範囲でおおむね「半壊・半焼/大破」となっています(地理的状況にもよります)。また、人的被害も爆心地付近で80〜100%、半径1.2km付近で約50%がその日のうちに死亡、さらに半径2〜4km地域でも、状況(屋外/木造家屋内/コンクリート家屋内)にもよりますが0〜50%の死亡率となっています。その結果、その当時約35万人の人々がいたと考えられる広島市で、その年の内に約14万人が死亡したと推定されています。
さて、下図をご覧下さい。上図では広島市をよく知らない人々に距離的実感が伝わらないのではないかと考え、この図を作ってみました。この図は、東京渋谷の通称「ハチ公前交差点」を爆心地として同様の同心円を描いたものです。


この図でいえば渋谷を中心として原宿、西麻布、恵比寿、中目黒、池尻大橋、代々木八幡を含む半径2kmで建物はほぼ「全壊・全焼」、新宿、赤坂、目黒、三軒茶屋、笹塚を含む半径4kmで「半壊・半焼/大破」となり、それに伴い人的被害も上記のとおり著しいものがあったということです。
みなさんはこの図を見てどう思われるでしょうか。私はこの図を描いたとき「意外と狭い」と思いました。「なんだこんなものか」とさえ感じました。私は漠然とですが、山手線内が覆われるくらいの地域かと思っていたのです。たぶんそれは「一都市を滅ぼした」という原爆のイメージのせいだったのでしょう。

これまで私は、自分が生まれ育った街である東京十条の空爆を出発点に東京空襲、そして日本全国の空爆など「都市に対する空爆を実感として知る」ことをテーマにささやかな自由研究をしてきましたが、今回、ひとつのしめくくりとして、その枠をヒロシマまで広げることにしました。たった一発の爆弾のせいで瞬時にして一都市が焼きつぶされ、多くの人々が悲惨に死んでいき、さらに放射線障害の後遺症のせいで60年たった今でも病苦や病苦の不安に苛まれている人々がいるということについて実感として知ろうと思いました。
上述したとおり、まずわかったことは「私は原爆についてよく知らない」ということでした。でも、それはたぶん私に限ったことではないと思います。60年が経過した今、この国では原爆や戦争についての記憶はぼやけ、「ノーモアヒロシマ」や「平和」という言葉だけがひとり歩きしているようです。
「原爆」という言葉から連想される言葉は何でしょう。「大量破壊兵器」「放射能被害」「人類の未来に対する脅威」などなど。そんな漠然とした原爆のイメージを剥ぎ取り、形骸化された「ノーモアヒロシマ」という言葉が本当はどんなことを伝えようとしているのか、自分なりに「疑問に感じたことをもう一度調べて実感として」知ろうと思います。そんなわけで今回のサブタイトルは「ワンスモアヒロシマ」としました。(今回初めて、広島を訪れてみた私にとっては、「ファーストタイムヒロシマ」かもしれませんが・・・)
なお、今回、被爆した都市の象徴としてカタカナで「ヒロシマ」と表記し、「広島」や「長崎」という実際の都市とは使い分けていることをみなさま、そして長崎の被爆者及び市民の方にお断り申し上げます。決して長崎のことを忘れているわけではありません。さらに、長崎のことが、日本でもそうですが特に世界では広島ほどの関心の集めていないことを事実だと思います。それこそ「ノーモアヒロシマ」という言葉の風化の表れではないでしょうか。
以上、長い「まえおき」になりましたが、どうかみなさまおつきあいください。


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